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「あの時」と「その時」。
人生を長くやっていると山ほどあの時とその時のシーンを思い出す。
その殆どは、あの時あのひと言がとか、あの迷いがとか、あの後ろめたさがとか、あの見栄がとか、あの金がとか、あの野郎がとかの、あの、あの反省と後悔と復讐心が頭の中を走馬灯の様に走る。
またその時、まさかあいつがとか、その時まさかあの人がとか、その時あの野郎がよくもまあとか、その時、その時に思いもよらぬ約束破りや、裏切りや、寝返りやとんずらやシカトに出会った時の数々を思い出す。
人間という業の深い生き物は、聖書にある「はじめに言葉があった」にある様に言葉を持った時から。言葉は最凶の武器となった。
イエスキリストを裏切った「ユダ」はその象徴とされた。
有史以来全ての歴史は言葉の歴史といってもいいだろう。
密告、甘言、嘘八百、偽善、口説き、暴言、放言、進言、金言、それらを「あの時」「その時」に置いてみると、なんだいちばんいけねえーのは自分じゃないかとなる。
あの時、自分がバチンとしっかりしていれば、ナメられたり、密告(チクリ)されたり、裏切られたりしなかった。
その時バシッと迷わずに断ったり、攻め込んだり、問い正していればよかった。
エエカッコシイが招いた自分の弱さだといい歳になってやっと見えて来る。
この頃ボランティアでという人が増えて来た。知人や友人の紹介のNPOの人々だ。
非営利団体という言葉の範囲がよく分からない。
君たちはタダ働きをしろというのかいと問い正している。
いや、企業やボランティアやチャリティに理解有る人々からの寄附で運営しているという。そんじゃ、ちゃんとお金が入ってんでしょ、そこんとこをちゃんと正しく教えてよというケースが目の前、つまりその時を迎えている。
人に何かを頼む時はタダはダメ、100円でも1000円でも10000円でも、かくかくしかじかでこれしか無いと説明しないとフェアじゃないよと言っている。
いい人と、いい人ぶっている人とはどえらい違いがあるからだ。
NPOとかNGOとかがこの国に正しく理解されるようになってほしいと思う。
私の愛する後輩と水曜日の夜、赤坂のそば屋さんに入った。
夜七時半ちょい過ぎ、空腹であった。先ずは日本酒を二合、それと牛すじ煮込み、ブリのあら煮付を頼んで二人で食べ合った。この後輩はグイグイ伸びているデザイナーだ。
きっと日本を代表する人間になると期待しているのだ。
私ら以外のお客さん、右に居る男は鍋焼きうどんをハフハフすすっている。
外は寒かったからな、いいな鍋焼き。
その斜め前の男はオヨヨ、そば屋さんでカツカレーだ、旨そうだな。
その横の男は、ミニカツ丼とミニかけそばだ。そういえばカツ丼食ってねえなと相当の思いでカツ丼に目が行く。カツ丼とかつ丼とどっちが正確なのだとふと思う。
人間は空腹になると決断力が鈍くなるのだ。
あの時あれを食べておけばと思わない様に、その時バシッと決断した。
日本酒あと二合、その後ミニカツ丼とミニもりそばセットにするぞと。
後輩も僕も同じでと言った。
何故かその店の女性店員はかなり走りこんだランニングシューズを履いていた。
そうだ、もう一人の愛すべき後輩がある賞をついに獲ったらかつ丼とカツ丼をたらふく食べさせてやろう。
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