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2014年1月22日水曜日

「ケツまくる」


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井戸を見つけた人、井戸を掘った人、井戸の水を飲む人だったら、井戸を見つける人間でありたい。
駕籠に乗る人、駕籠を担ぐ人、そのまた草履を作る人なら、草履を作る人でありたい。和食が文化遺産となったが、和食なら「だし」でありたい。
煮干し、トビウオ(アゴ)かつお節、昆布、干し椎茸などがなければ和食は成り立たない。「うまみ」を演出するのは「だし」次第だから。

戦国時代はカツオ節を「勝男武士」といって縁起物であった。
関東はカツオ節、関西は昆布がだし文化の主といえる。
少年の頃家に帰っても誰も居ない。煮干しを金網にのせ七輪で焼いてしょうゆにジュッとひたし冷飯の上にのせて食べていたが実に格別の味であった。
しょうゆの少し焦げたいい香りがぷ~んとしてこれ以上ないメシとなった。

母親が働きに出ていったし兄姉は六時、七時まで帰って来ない。
家に灯りをつけるのも末っ子の私の役目だった。
カツオ節をカンナで削るのも得意であった。
少し厚め、少し薄め、少し粉々に、刃の出具合をトンカチで調整して削った。

煮干しとカツオ節ほど少年の頃の思い出はない。それさえあれば何杯でも食べれた。
味噌汁も得意だった。今日は煮干しでだしをとか、今日はカツオ節でとだしを作った。
庭に生えていた野草みたいのを入れると味噌となじんで苦みの効いた旨い味噌汁が出来た。

刺身、焼き物、煮物、揚げ物、酢の物、鍋物、お椀物を人に例えるなら役者たち(タレント)で、それぞれの個性であるならそれを引き立てる「だし」でありたい。
但し「ウルサイだし味」で主役たちを唸らせたい。だしはソウルフードだと言う人もいる。音楽でいえばリズム&ブルースだろうか。

今夜は油揚げと細切りの大根を白味噌で作ってあったのを肉じゃがと共に食した。
ニュースを見ていて思う、沖縄をこれ以上イジメるととんでもない事が起きる。
金で票を買うようなやり方はもう通じない。
もし政府が強行するなら三里塚闘争のようになるだろう。美しい海を血の海にしてはならない。「だし」を演じる政治家を日本国は待っている。

「乱ありて人物出ずる」と古人は言った。
ケツは何んのためにあるのか、ウォシュレットに座るためじゃない。ケツはまくるためにある。

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