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2020年1月22日水曜日

第9話「私は椅子」

私は「椅子」である。通常は人が座る。私の上に立つ人はあまりいない。小学生の頃に私の上に立って、大きな声を出していた子は、先生にちゃんと座りなさい、とか。静かにしろ、ちゃんと座れ。などと叱られた。一年生や二年生の頃は、メソメソ泣いていた子も、四年、五年となると、先生つまんない、とか。先生ダサイとか、言い出す。中・高になると、椅子を持ち上げ教師に向かってブン投げて大騒ぎする、乱暴者も出る。一時期中・高が荒れまくって社会現象化したが、この頃はもっぱらスマホを見ていて、授業中は荒れていないようだ。ガキ共が大人しくなったのは、いいようで、悪いようでもある。悪ガキが出ないようでは、その学校から人物は出ない。法を犯してはならないが、自分なりの言い分があれば、それを主張しなければ将来性はない。全共闘全盛時代、私椅子はバリケードとして使われ、重ね重ねにされた。学生は学校に言い分ありと主張した。私は機動隊にボコボコにされたり、水攻めにされたり、発煙銃を打ち込まれた。今、日本中の大学は、静かなること水の如しと、なっている。怒りを持たない若者の姿態が、私には心配でならない。怒りを爆発させるのは、若者の特権なのに、その権利を行使せず、仕方ないじゃんとか、カンケーナイとか、かってにすればとなっている。私椅子は社会に出ると、奪い合いとなる。ポストとも言われる。会社に入ると、平社員、主任、係長、課長代理、課長、次長代理、次長、副部長、部長、さらに、副本部長、本部長、執行役員、取締役、常務、専務、副社長、社長と私椅子はその存在が変わる。仲間同士、同僚同士の争いを生み、○××派、日和見派、風見鶏などに分かれて、血みどろの争いとなる。人間社会が生まれた時から、人と人は、その身分争いをして来た。私椅子は、その身分の証であった。パイプ椅子から、革張りになり、背もたれが付き、ゆったりと両肘が付くようになって行く。人間社会は肩書きを争う社会でもある。特に官僚社会となると軍隊と同じ階級社会で、私はその象徴となる。変じて政治の世界ではポストこそ力の源泉となるから、すさまじい争いとなる。総理大臣の椅子は一つしかない。故平尾昌晃の歌に、~「星はなんでも知っている 夕べあの娘が泣いたのも……、」と言うのがあった。又故仁木悦子の小説に、「猫は知っていた」と言うのがあった。私は、星のようになんでも知っていて、猫のようになんでも見ていた。私椅子は座ってくれる人がその時の主人である。私は必死に主人を支えるのだ。大志とか野心。希望と絶望。絶頂や転落も。人間と言う魔物のような生き物の有り様を、主人のお尻の感覚で知るのである。先日サッカー界のレジェンド、三浦和良選手が、お尻の疲労で欠場と言う報があった。その理由は三浦選手愛用の椅子がいちばん知っているのだろう。私は今、大学生が私たちを投げ飛ばして意見を主張していた時代を懐かしんでいる。

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