今から六年前、ある人に呼ばれ神谷町のビルの一室に行った。
私の方は確か四人だったと思う。十人掛け位の長いテーブルに私の向側に一人の美人、その隣に一人の男の人、その右側に仙谷由人さん(当時衆議院議員)、その隣に手塚仁雄さん(当時衆議院議員)であった。
話の内容は頭の良さそうな美人、その名を蓮舫さんという。その人が来たる参議院選挙に東京選挙区から立候補するので何か良い戦略があればという事であった。以前手塚仁雄さんの選挙をお手伝いし当選したその縁だと思う。
蓮舫さんは仙谷由人さんと手塚仁雄さんが後見人のようであった。かつてクラリオンガールであり、ニュースキャスターで名を成していた。ショートカットにクルクルとした真っ黒な大きな目で私をじっと見つめる。
その頃マニフェストという言葉が世の中に出まくっていた。東京選挙区は四人区である。自民、公明、共産、残り一議席を民主、社会、無所属で争う。
今と違ってかなり民主党にとって厳しい状況だった。仙谷由人さんは胃癌の手術をしたとの事、しかし鋭い目であった。その日は多分私の値踏みを兼ねた顔合わせであったと思う。蓮舫さんは双生児の女の子を産み、育てているという。未だ手が掛かる歳であった。
私は話しながら紙に筆ペンで、硬派蓮舫ママとして起つ。蓮舫のママフェスト。と書いた。徹底的にママ目線がいいのではと思う、又キャスター時代硬派と呼ばれていたのであえて硬派を旗印にはと筆で書いた。仙谷由人さんがいいねと言った。
続いて手塚仁雄さんがいいですねと言った。蓮舫さんはどうですか、今ここで決めなくてもいいですから家に帰ってご主人と相談してみて下さいと言った。蓮舫さんは凄くいいです、これで行きますと即答した。ご主人にはと聞くと隣にいる人に向かってこの人が私の主人ですと言った。なあんだ、そうですかご主人はどうですかと聞くといいですねと言った。この間およそ二十分位であったと記憶している。
その後蓮舫さんは参議院議員となり今や必殺仕分け人なる恐い人となり、ついには特命担当大臣(行政刷新相)となった。又、仙谷由人さんは官房長官となった。手塚仁雄さんは小泉ブームで一度落選したが昨年復活した。
思えば色んな人たちの選挙を手伝って来た。つくづく六年の月日の変転を感じている。みなさんに比べ我が身の六年の何と進歩の無い事か。
亀井久興さんとその娘の亀井亜紀子さんもお手伝いした。
先日亜紀子さんとは亀の子塾を立ち上げようと話し合った。蛙の子は蛙か、はじめは演説もままならなかったが竹下王国での選挙戦の最終日、島根県益田の広い公会堂(建築がとてもいい)に行ったら、この公会堂が出来て以来こんなに人が集まったのは初めてだと地元の人が言った。凄い熱気で超満員だった。
私が紙に筆で書いた言葉は「山陰」は暗いイメージだから「陽の当たる島根に」と書いた。シンボルカラーはオレンジにして太陽をシンボル化した。そして奇跡的に当選した。
加藤一郎元東大学長の娘さんである小宮山洋子さんもお手伝いした。聡明を絵に描いたような女性であった。確か息子さんと一緒だった。再出馬であったので「小宮山洋子新登場」とした。人間も商品ですからと言った。そうですねと一発でOKしてくれた。小宮山洋子さんは黄色が大好きであったので黄色いひまわりをシンボルカラーにした。その小宮山洋子さんも六月七日財務委員長となり壇上にいた。
つまりはいかに私自身が何にも変化も進化もせず退化をしているかを感じさせたれた。六年間みなさんはどう進化しましたか。一度立ち止まって見るいい機会かも知れません。
野次馬のマスコミは直ぐに、反小沢だ、非小沢だ、親小沢だ等と大騒ぎ、六年間マスコミは退化し続けている。時代が混乱、カオス状態になると必ず若くていい人材が出て来る。人材は時代が生む産物である。明治維新の立役者西郷隆盛も活躍したのは島津斉彬に見い出されてから七〜八年であった。日本にもやっと真の変化が生まれて来た気がする。
菅直人も一学生から進化を遂げた。「イラ菅」「ダマ菅」「ズル菅」と変化しながら。
強いカアチャンに気合いを入れられながら。野心家の底は浅いまだまだドラマは続く。
私にこの先の六年は無いだろうからせめて六ヶ月単位で今一度変化を目指して行こうと思う。まずは飲み、書き、作るだな。何を作るか今から直ぐに考え始めよう。もっと人生に恋愛しよう。後三年の人生だとしたらお正月は後3回しか来ない。春夏秋冬も。一年だとしたら後一回だけだ。
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