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2020年4月14日火曜日

第50話「私は下駄」

私は「下駄」である。この頃私下駄を履く人は少ない。四月十日一人の偉人がこの世を去った。映画監督の「大林宣彦」さんだ。八十二歳であった。私下駄はある年、当時人気絶頂だった「鈴木保奈美」さんを大手コーヒーメーカの商品広告に起用することを、広告代理店さんと共にすすめた。幸い企画案が採用となり誰に演出を頼むかとなった。いつも私下駄を使ってくれていた、CD(クリエイティブディレクター)に若手の人気女優を撮らせたら、今は大林宣彦さんでしょと言った。いいね、受けてくれるかなとなった。その頃すでにヒット映画を何本も手がけていて大御所であった。映画監督は今ではCMを多く手がけるが、当時は少なかった。CMの演出家が手がけていた。記憶が確かなら青山の骨董通りにあったオフィスにCDの方とお願いに行った。広島出身と聞いていたので、きっとすこぶる荒っぽい広島弁なのだろうと心期していた。(「仁義なき戦い」の広島弁が有名)青山通り近くのビルの中にオフィスがあって、型通り失礼しますと言って、ソロソロと入った。大林宣彦さんは素足に下駄履きであった。奥さまがプロデューサー&マネージャーであり、御二人共この上なくおだやかでやさしかった。イヤードウモドウモ、まぁ座って座ってと言ってくれた。広島弁だと思っていたが、そうでなくフツー弁だった。ひとしきり映画談議をして、演出をお願いした。その後快諾をいただき後日撮影となった。その日、スタジオにいるとカタコト、カタコトと下駄の音がした。大林宣彦さんはパンチパーマにサングラスが定番であったが、まさか撮影に下駄で来るとは思わなかった。信玄袋みたいのを持っていた。人気絶頂だった鈴木保奈美さんは実に静かであった。そして実に美しかった。とてもいい作品ができて、次の年もお二人にお願いすることになって行った。大林宣彦さんは父上が軍医であった。七歳の時に敗戦となった。自分は敗戦少年だと言っていた。口をすこしオチョボ口にして、戦争は絶対にしてはいけないと話す。気負いない語り口は、民話の語り部みたいだった。愛妻家であっていつも奥さまと一緒だった。肺癌で余命数ヶ月と宣告されながら、長編の大作を生んだ。徹底的な平和主義者であった。反戦を旗印にしていた。大林宣彦さんの言葉にすばらしいのがあった。(記憶が定かでないが)「ボクねこう思うんだよね。日本はバカな戦争をして、原爆落とされてアメリカに占領されてしまった。でもね、奇跡的なものを手にしたんだよ、平和憲法をね、憲法九条は絶対に守らねばならないんだ」私下駄は大林宣彦監督のすさまじい生への執着力は、ひとえに反戦と平和のためにあったと思う。映画は平和を勝ち取る武器であったのだろう。心より敬意を表し合掌する。余命数ヶ月宣告から三年近く、酸素ボンベで息をしながら歴史に残る名作を生み出した。「花筐(HANAGATAMI)」は、発表後ベスト1になった。「青春は戦争の消耗品ではない」という言葉があった。私下駄は外に出れないので一日二本から五本映画を見ている。今日は大林宣彦監督といえばこの作品と言われる。尾道三部作「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」を一気に見ることにする。東日本大震災後、日本に新たな戦争が迫ってきた」と危機感を語っていたと言う。私下駄はあの世に下駄履きで行く大林信彦さんに深く頭を下げるのだ。コロナ、コロナの世の中に真冬のような永雨が降っている。午前一時三十八分四十二秒。今起きている事はいつか終って行く。その先のために一日一日何かを学び大切に生かそうと思い、中村文則原作「去年の冬、きみと別れ」という映画を見始めた。

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