私は「民衆」である。コロナの日々を送りながら私民衆は、民衆の恐ろしさを知る。BSプレミアムに中野信子さんという、人気の脳科学者が出演していた。映画ばかり見ているので時々違うものを見る。その番組は“魔女狩り”についてであった。1640年頃ドイツのある地方に小さな都市があった。そこは一人の独裁的司教が支配していた。その頃いろんな疫病や不作や不幸な災いが起きていた。民衆は不安な日々を送っていた。なんでこんなに災いが起きるのか。その時一人の男が魔女のせいだと言う。男は魔女についての一冊のオドロシイ本を出す。その頃活版印刷が生まれおり、250ページ位のその本が民衆の間に広まった。凶暴な司教は一人の女性をお前は魔女だろうと捕まえ、拷問をする。そして魔女仲間の名を言えとあらん限りの拷問をする。身にまったく憶えのない女性は拷問の痛さから逃がれるために、思いつくまま人の名前を言ってしまう。名前が出た人間は男女年令の区別なく捕まえられ、人間が思いつくあらゆる拷問をする。そして次々と名前を言わせて捕まえる。そして又と続く。捕まえられた人間は民衆によって魔女狩りとなり、火あぶりにあったり、首をつられたり、徹底的に殺された。私民衆は思う、人間という生き物の最大の本能は“死にたくない”という教えを。高名な学者がそう書いていた。人間に不安という衣を着せると、日々増幅をする。自分が魔女にされないために、拷問や処刑に加担する。例え自分の親兄弟、親族や友人、知人、隣人、恩人、恩師だろうが、拷問から逃れるために名前を言ってしまう。言ったからとしても処刑されるのだ。民衆はいつでも“観衆”になると言うが。不安から逃れたい民衆は、処刑を見る観衆となる。疫病の災渦が生じると世界中で、魔女狩りに近い事が起きる。関東大震災の時多くの朝鮮人が魔女狩りのように大量虐殺された。アメリカで有名なのは赤狩り(共産主義)という名の魔女狩り施風があった。(マッカーシー施風)私民衆は究極の魔女狩りは、“戦争”だと思う。死にたくない、恐い、生きたいという不安が、人間を変えてしまう。気さくな八百屋さん、陽気な魚屋さん、もの静かな大工さん、やさしい学校の先生も、戦争の中では狂人となってしまう。平時ならお祭りを楽しむ民衆、花火大会や草野球を楽しむ民衆が殺人鬼となるのだ。現代もそれは続いている。ネット社会にいる顔の見えない魔女狩りたちだ。それはワンタッチで世界中に広がる。私民衆はPCも使えないのだが、ひとたびアイツは気に入らない、アイツは疑わしい、きっとアイツが犯人だとなると、もう逃げることができないと言う。民衆は不安を抱え込んでいるとビョーキになり、誰かのせいにしたくなる。私民衆はこの先きっと起きるであろう民衆心理を心配する。この際いい音楽を聴き、いい映画を見まくり、いい本など読んで人に感染させない日々を送る。一日15秒か長くて2、3分の会話である。私民衆は実はずっと無言の生活も得意である。カフカ原作の「変身」と、朝井リョウ原作の「何者」という映画を見た。今の大学生たちの生態を就活を通しながら描き出している。現在午前五時二分二十八秒、民衆は誰でも悪魔に変身する。
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