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2012年3月19日月曜日

「医師の鏡」




“蹴っ飛ばし”を食べた、といっても靴の底を食べた訳ではない。
「馬刺し」を食べたのである。

 3月16日(金)仕事場近くの小さなビジネスホテルに泊まり、東京駅1044分発の長野新幹線に乗り佐久平へ向かった。
乗車時間約1時間20分で到着、私が独立したのが24歳、その後初めて私が正社員に迎えた男が迎えに出てくれていた。
彼は私と共に37年仕事を共にしている。今も右腕である。
 長男であった彼は父上が亡くなった後佐久平に帰り今は毎日そこから通勤している。

 その佐久に医学界でも有名な「佐久総合病院」がある。
東京大学医学部を出た若き医師「若月俊一」先生が赴任し、農民のための医療を目指した。無医村での出張診療を行った。一軒一軒、一人一人にその手を差し伸べた。手術をしてはいけないといわれた脊椎カリエスの手術に挑戦した。
その手術を農民たちに見せ恐怖を取り除いた。「二足のわらじ」を履けというのがモットーであった。
 先進医療への取り組みと予防医療、塩分の摂りすぎをコントロールさせて回った。

そして今年も長寿県NO.1は五年連続長野県であった。
駅に着くと127分、日本の列車は正確である。迎えに来てくれていた男とおそば屋さんに行く、そこで“蹴っ飛ばし”こと馬刺しとほうとうを食べた。生憎小雨模様で浅間山は見えなかった。

それから目的の佐久総合病院の教育ホールへ、昨年度日本ペンクラブ映画賞年間第二位のドキュメント映画「医(いや)す者として」を観る。50年余に亘って撮影した約30万フィート100時間余になる記録フィルムを1時間48分に編集した画期的なドキュメントフィルムだ。

ガァーンと頭を打たれた。グサッと胸に刺さった。
一体俺は何をしていたんだと強烈に思った。若月俊一先生は96歳でこの世を去った。2006822日であった。
その志は多くの医師に受け継がれている。医師の中の医師、世界中から尊敬される医師である。

なんとかこの先生の偉業を一人でも多くの人々に観て貰いたいと思った。

このところ腹が刃物で刺された様に痛い。
背中がキリキリ痛い。だがそんな事は大した痛みではない。

新聞には全共闘世代に圧倒的影響を与えた「吉本隆明」が86歳で逝去したと書いてあったその熱狂的全共闘世代の殆どはプチブルと化した。そして今続々と定年を迎えている。思想家からの何の影響を受けたのか、彼等の好きな言葉「総括」をしてもらわないといけない。
中核や革マルの残党は今も内ゲバを繰り返し、連合赤軍の坂口弘は死刑囚として今も生き、超法規的扱いで解放された者たちは中東のどこかに潜んでいる。

アフガンで米兵が16人近くの命を奪ったり傷つけたりした。タリバンは必ず米軍に復讐するだろう。
テロルの時代は永遠に終わらない。中井洽といういかがわしい?民主党議員に切断した小指が送られた。
世界は利権を求め病んでいる。偉大なる若月俊一先生でも治療不能なのだ。
拝金主義病患者の最後ほど残酷で哀れなものはない。歴史がそれを証明している。

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