人は馴れないものに手を出さない方がいい。
先週金曜日、銀座教文館という書店の二階に行った。
5000円と3000円の図書券をプレゼント用に買うためである。
5000円の方には柴犬のかわいい写真があり、3000円の方はピーターラビットであった。
これを買い包んでくれているのを待っている間ふと前を見ると、東野圭吾さんという作家の最新作「人魚の眠る家」というのが平積みされていた。
幻冬舎刊である。作家デビュー30周年記念作品と腰巻きに書いてあった。
東野圭吾さんという作家の本を買って読むなどということは、未だかつて一度もない。
テレビドラマで見たことはあるが、文章を読むのは初めてだ。
新聞の全ページ広告が頭の中に入っていたのだろうか、つい買ってしまった。
税込み1600円なり。原稿用紙655枚(400字詰)と書いてあった。
全388ページ、パラっとめくると書き出しがある。「たくさんの車が行き交う幅の広い道路から脇道に入り、ずっと奥まで進んだところにその家はあった」その瞬間あっこれはダメ、イケセケンと思った。
と、その時教文館の女性が図書券ご用意できましたといった。
買わないと決めたのに、これくださいと言っていた。
東野圭吾さんという作家には全く馴れていない。直木賞受賞とあるから余程外れることはないだろうと思い、家に帰り読み始めると余程という枠をはるかに外していた。
小説をはじめて書いたのではと思う程シロウトぽくて読むに耐えない。
あるテーマを取材し調べた物を物語に詰め込んでつなげたものに過ぎない(でも最後まで読んだ)。推理小説のはずなのに何のスリルもなく、動かない公園の遊具の上にじっと乗っているようだ。これは私の読書感だから東野圭吾さんファンはどうか気を悪くしないで下さい。内容についてはこれから買おうと思っている人のために申し訳ないので書かない。今思えば幻冬舎の新聞広告はよくできていたということだ。
すっかり一杯食ってしまったのだから。
この本を読む前に取り寄せてもらっていた、中勘助の「犬」と谷崎潤一郎の「武州公秘話」を読んだ(映画のネタ探しです)。
これを読んだ後なので東野圭吾さんは可哀想な比較となってしまった。
明治・大正期の小説家たちは世界に類をみないほど層が厚く、文章は第一級だ。
熱海でパソコン相手にカタカタ文字を打っている時代小説の人気作家が「私のは小説ではありません。文学なんてとんでもない『ただの商品』です」といった言葉を思い出した。出版不況は本を生まず、売れそうな商品をつくった結果なのだろう。
生きている内に一冊くらい「私小説」を書くかと思っていたが、馴れないことはスッパリやめにする。
熱海の作家は岩波書店の生みの親の有名な別荘を手に入れそこで日々執筆というより、カタカタと打つ。その原稿をヤマト運輸かなんかで出版社に送る。
やがてパソコンに編集者から原稿が送られる。それに赤字校正してパソコンで送る。
そして最終稿をチェックする。何日かするとどーんと新聞広告が出て、すぐに書店に出る。人気作家なのでどーんと売れて、どーんと印税が振り込まれる。
作家と出版社は会わずに本は売り出される。
残念ながらこの作家の本は読んでいない。
馴れないものには手を出さないと決めたので、今後も読むことはない。
このブログを書いている日曜日午前一時、ニュースで東野圭吾さんが書いた小説のテーマその物が流れた。
十五歳位の少年が脳死判定され、内臓の多くは人の内臓として生き続ける。
人間はどこまでが生で、どこまでが死か。
近い将来商品と化した小説が生鮮食品売り場で売られる日が来るかもしれない。そうなると消費税はかからない。