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2015年11月12日木曜日

「道」

※市川市東山魁夷記念館より転載



昨日午後一時〜尊敬する坂田栄一郎さんの個展を銀座のギャラリーで観た。
仕事仲間のプロデューサーと。私は二度目だった。
病魔と戦い続け、生と死を行ったり来たりした坂田栄一郎さんのファイトする心は健在だった。

一羽のニワトリ、一羽の蜂、一枚の花びら、死んだ大地から芽を出す草花、白い十字架のような雲、巨木の根に宿した苔たちの輝き、生に対する坂田栄一郎さんの慈悲の目と、慈愛の心が息づいている。十二月六日まで個展は開催されている。

その後一人で東京・竹橋の東京近代美術館に行った。
MOMATコレクション」展を観に。
好きな画家藤田嗣治をオダギリジョーの主演で映画が作られた。
監督は名作「泥の河」「死の棘」の小栗康平だ。
その映画を観る前に、藤田嗣治を観ておきたかった。

白い裸婦や猫の絵も目的の一つであったが最大の目的は、藤田嗣治の戦争画だ。
14点が一堂に公開されるのは初めてだ。65歳以上は入場料が無料であった。
戦時中に描いた画家たちの戦争画は、軍の命令による戦意高揚のためであるが、戦争の悲惨さを残す記録画でもあった。
藤田嗣治の戦争画は、ヨーロッパの名画の群衆表現を戦争画の中に取り入れた藤田嗣治の実験画のようでもあった。

藤田嗣治はパリで評判を呼んで帰国したが、日本の画壇は徹底的に藤田嗣治を叩いた。「麦と兵隊」や「花と竜」を書いた芥川賞作家、火野葦平も同じように日本の文壇で叩かれた。火野葦平の戦争文学は体制的なものだと。
火野葦平はやがて精神を病んだのか「死にます、芥川之介とはうかもしれないが、或る漠然とした不安のために・・・」という遺書を遺して自死した。
一方藤田嗣治は日本を捨てて再びパリに向かい二度と日本の地を踏むことはなかった。

数メートルもある藤田嗣治の戦争画は暗褐色であり、人間と人間が地獄の中で殺し合う。極致を超えた描写力に気分が当然悪くなり、うつ、うつとしたものとなった。
靉光、速水御舟、加山又造など大作家の名画コーナーもあった。

なかでも東山魁夷の「道」を観て救われた。
今まで何度も観ていたが、私の興味の的ではなかった。
日本画自体にあまり心が動かなかった。
花鳥風月に生と死や、人間の業や狂気を感じなかったからだ。

だが昨日は「道」の前に立ち尽くした。緑の中にあるただ一本の道。
戦後初期の作品である。藤田嗣治の濃密な肉弾戦、人間残酷画を観た後だからだ。
東山魁夷はこの道に日本の明日を求めたのだろうか、この道の先に希望があると。
日本画に心が動くようになったのは、やはり年をとったせいかもしれないと思った(入場料は無料だったし)。

だが昨日の朝東京へ向かう列車の中で、隣の四十代の男がフライドチキンをムシャムシャ、ベタベタ食べていた。脂っこい臭いにうんざりした。
五本の指に油がつきまくっていた。私は新聞を読んでいたのだが、大船を過ぎたところでオイ、ベタベタ食うなといってしまった。
マズイ未だ老人になりきれていないのだ。男はチキンを手にポッカーンとした顔をした。
♪〜行きてゆこうよ 希望に燃えて 愛の口笛 高らかに この人生の 並木路…。
東山魁夷の「道」とディック・ミネが唄った「人生の並木路」が重なり合った。
「道」といえば、アンソニー・クインとジュリエッタ・マシーナの名画があった。
今週末に借りて来て観ることにする。

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